2011年6月21日火曜日

間違いを公表できる民主主義にはまだ未来があると思いたい・・・



もう何もないんですよ。ただガレキが広がってるだけ。たった1ヶ月前までそこにたくさんの人の生活があっただなんて信じられない。かろうじてホームが残った大槌駅の跡に立てば、この大量のガレキをどこから片づければいいの?
ここに住んでいた人々の家を建て直すなんて何年かかるの?
復興への道のりの果てしなさに気が遠くなるような圧倒的な“無”。そしてそんな風景が、海岸沿いを走っても走っても見渡す限りずーっと続くんです。

その時、ボクは思いました。そうか、ボクたちはずいぶん大きな賭けに負けたんだなぁ。自然が思いもかけない猛威をふるうことは誰だって知ってはいるけど、まさかこんなに大きな地震がくるとは……そう、こんなに大きな地震は、高い津波は、こない方に賭けていた。

絶対安全なんてこの世にないことは分かっちゃいるけど、危険を訴える人がいるのは知っていたけど、まさかあの原発がこんなことにはならない方に賭けていた。

政府や企業は都合のいいことしか言わないことは分かってた。だけど多少のごまかしがあっても自分たちの生活をおびやかすほどのことはない方に賭けていた。……そしてその日、出たのは出るはずのない最悪の目だった。

あまりにも大きな賭けに負けたボクたちはこれから何に賭けていくんだろう。今ボクたちはおそるおそる今までとは違う何かに賭けようとしている。何を信じるべきか?何を大切にすべきか?それも国や企業や過去の例に委ねるのではなく、疑い深く用意周到にそして何より、自分自身で考えて賭けようとしている。

(略)

もう震災から2ヶ月がすぎました。今でもあの大槌の駅跡から見た果てしないガレキとその上に広がっていた青い空を思い出します。あの大きな何もない空間に人は何を築きあげることができるだろう?過去にがんじがらめの未来ではなく、折り重なった現実の中に見えなくなっていた「理想」に今こそ賭けることはできないだろうか?

失われたものが大きいほど、得るものも大きくありたい。それが多くの尊い犠牲に報いることでもあるような気がします。

(朝日新聞2011.5.24)

しりあがり寿さんの記事より

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